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現代GP「東北アジア地区交流による実践的技術者育成」活動記録

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 17.コムソモリスク工科大学、アムール教育大学訪問(2009海外インターンシップ2)
    (平成21年9月13日~27日)
吉田政司(専攻科長)

 平成21年9月13日から9月27日まで、専攻科1年生、小松繁綱、藤田典弘の2名が、海外インターンシップとしてコムソモリスク工科大学、アムール教育大学を訪問し、吉田、南が同行した。その概要を記す。
 9月13日は福岡からインチョンへ移動した。9月14日、インチョンからハバロフスクへ移動した。ハバロフスク空港にコムソモリスク工科大学のEugene Beletskiy国際交流室長(以下ユージーンと記す)が迎えに来てくれており、車でコムソモリスクに移動した。コムソモリスクには夜9時についた。我々は、このあと25日まで、コムソモリスク工科大学の教員用の寮に宿泊した。
 9月15日は、まず最初に科学担当副学長のBurkov氏と会談した。吉田が訪問の趣旨を説明し、Burkov副学長が、我々を歓迎してくれる旨を述べられた。通訳はユージーンがおこなった。
 次いで外国語学院2年生の日本語クラスで、我々の学生が、自己紹介と宇部高専の紹介、および宇部市の紹介を日本語でおこなった。教師はMaria Zenzina(以下マリアと記す)である。今回のインターンシップでは、彼女が受け持つ6つの日本語クラスで、一回づつ、日本語の講義をおこなった(なぜか何回も顔を出す学生が数人いたが)。最初のクラスの学生数は10人ほどで、持ち時間は70分であった。初めてのプレゼンテーションであり、学生の説明もしどろもどろで、かつ、プレゼンテーション資料も十分に準備されたものとは言えなかったが、ロシアの学生は、友好的に迎えてくれた。彼らは、日本のおもちゃ(だるま落とし、あやとり、お手玉、こま)に大変、興味を示した。
 そのあとは、私ひとりだけが別行動となり、Dmitriev機械工学科長と面談し、機械工学科のいくつかの設備を見せてもらったあと、材料研究室のKim教授、Bashkov准教授と、お互いの研究についてデイスカッションをおこなった。
 9月16日は3年生の日本語クラスで、前回と同じ内容のプレゼンテーションをおこなった。このクラスは学生が15人で、前回より多かった。われわれのプレゼンテーションに対する反応は前回と同じく友好的だった。次に、英語学科のクラスで授業をおこなった。英語教師ガリアの受け持つクラスで、学生は日本語を全く習っていない(なぜ、このクラスの授業が我々のメニューに入ったのかはわからない)。それで、我々の学生が、英語で自己紹介と日本の四季の紹介をおこなった。しかしながら、学生の英語がまずいのと、用意したプレゼンテーションが、写真の少ない、字ばっかりのものだったため、最悪のプレゼンテーションになってしまった。英語での講義は、よほど練習しない限り、宇部高専の学生には無理であるように感じた(来年はこのクラスでの授業はないかもしれない)。

コムソモリスク工科大学本部

科学担当副学長Burkov氏(左列の一番奥)との会談
 そのあと、学生寮の代表と会談をおこなった。この会談は、宇部高専の学生寮とコムソモリスク工科大学の学生寮の設備や待遇の比較をおこなう目的で、寮の自治会の希望で行われたようだった。会談は英語で行われ、後で述べるyoung teacherのイリーナがロシア語と英語の通訳をおこなった。外国語学科以外の一般のロシア学生は、あまり英語が話せないようであった。どちらの寮も、一部屋当たりの学生数は3人であるが、コムソモリスク工科大学の寮は、机の上に立体的にベッドがある変則的な構造であった。部屋にはテレビは無いが、パソコンはみんな持っていた。共同のシャワーがあり、建物の汚さや自炊室の設備など、宇部高専の寮と大差ないように感じられた。
 寮の会談に続いて、夜7時から8時30分まで、社会人クラスでの授業をおこなった。われわれの講義内容は、これまでの日本語クラスと同じであるが、この日、3回目の講義であり、とてもハードな一日だった。日本語で話す講義では、我々の学生は、ロシア人学生に友好的に迎えられた。

2年生日本語クラスでの授業風景

3年生日本語クラスでの授業風景

英語クラスでのプレゼンテーション。

寮の学生との会談

学生寮。机の上にベッドがある。ロシア人の大きな体に対してベッドが小さすぎる?

社会人クラスでの授業。小さな子供も受講している。
 9月17日(木)はアムール川でシャケ漁をおこなった。コムソモリスク工科大学のAlexander Skripilev教育責任者(以下アレクサンドルと記す)親子、Kim教授、Bashkov准教授夫妻、Bashkov准教授の兄夫妻(Bashkov准教授の兄は企業に勤めるコンピューターエンジニアである)、国際交流室のMarina Konfederatovaが同伴した。かなりの大人数だった。アレクサンドルはフィッシュングが趣味であり、自分のボートを持っている。Bashkov准教授の兄も同様にボートを持っており、フィッシィングが趣味である。9月は、ちょうどシャケ漁の季節であり、彼らは、毎週、趣味で漁をおこなっている。それで、我々とKim教授、Bashkov准教授夫妻をシャケ漁にさそってくれたものである。漁は、長さ150メートル、高さ2メートル程の網を浮きにくくって流し、川の流れに乗って500メートル程、ボートと浮き、網が流されてから、網を引き揚げ、網にかかっているシャケを引き上げるという本格的なものである。一回の漁は10分ほどで終わり、大きさ1メートルのシャケが5,6匹、網にかかる。同じ様な漁船(モーターボート)が10隻ほど、川辺で順番をまっており、一度に一隻ずつ、ルールを守って漁をおこなっていた。我々は川辺で、バーベキューで豪快に肉を焼き、釣ったシャケでスープを作り、川辺でウヲッカを飲みながら、楽しく食べた。ロシアの人たちは、大自然を大いに楽しんでいる印象を受けた。この日は平日であるが、Kim教授とBashkov准教授は休暇をとったのかもしれない(または我々にロシア文化を教える重要な仕事をおこなっていた?)。
 18日(金)はアムート湖観光をおこなった。アムート湖はコムソモリスクから車で2時間近くかかる、山に囲まれた小さいが、きれいな湖。標高は高くないが、とんでもなく寒かった。コムソモリスク近辺はなだらかな丘があり、冬は距離スキーが盛んであるが、この季節は、まだ雪がないので、全くのオフシーズンであった。旅行社のドライバーとIrina Afanasjeva(以下イリーナ)、ズベータの姉妹と2年生の男子学生がついて来てくれた。イリーナは環境学部のスペシャリストコース(Bachelorより1年長い5年間の課程)を卒業して教員に採用されたばかりで、しかもマスターコースの学生でもあり、さらに学生会長も務めている。我々が来校することを知って、ユージーンのもとに押しかけ、自ら我々の案内役を買って出た積極的な女性である。彼女は英語を話すが日本語は話せない。ズベータは公務員で、老人の相談窓口の仕事をしているらしい。彼女はマリアの社会人コースの学生でもあり、日本語を話す。男子学生は学生会の役員でイリーナの手下である。彼らもアムート湖は初めてであると言っていた。ドライバーが川原で薪をもやし、その周りで温まりながら、イリーナとズベータの用意してくれた昼食を食べ、音楽を聴きながら楽しく過ごした。
 19日(土)は午前中に日本語クラスでの授業がひとつあり、これまでと同じ内容の講義をおこなった。われわれの学生も、さすがに日本語の講義には慣れてきた。午後は市内観光をおこなった。ズベータを含む社会人クラスの女性が3人、同行してくれた。その中に、もうひとりズベータがいて(ロシアにはイリーナとズベータは大勢いる)、彼女は、アムール教育大学の日本語学科を修了して工科大学の日本語教員として採用されたばかりの教員であった。彼女も、その後、頻繁に我々の接待をしてくれた。

アレクサンドル親子のシャケ漁の様子。

シャケをさばくBashkov准教授。このあと、彼は、自分の手も切ってしまった。

アムート湖への途中での撮影。中央がイリーナで右端がズベータ。

社会人クラス学生との市内散策。

コムソモリスク市郊外の住宅地。マリアの自宅はこの一角にある。

日本語教師マリアの自宅。建物の外側は古めかしいが中はきれい。

石油会社に勤めるシステムエンジニアのジマ(右側)とサボナ

コンピューター学部2年生での研究発表。

雨にぬれる教会。9月のコムソモリスクは雨がよく降る(コムソモリスク工科大学の学生は1年中、雨が良く降ると言っていた)。気温は宇部の11月中旬から下旬並み。

地元テレビ局の撮影。三日後の朝のニュースで放映された。
 20日は日本語教師マリアが我々を自宅に招待してくれた。マリアの自宅は、大学からバスで20分ほどの、郊外の住宅地にある。建物は古いが、中はきれいに飾られていた。マリアは、我々と会わせるためにふたりのシステムエンジニアを招待していた。石油精製工場で働くジマとサボナで、ジマは会社をやめて、日本で働くつもりだと語った。ジマはマリアのクラスで日本語を習っており日本語を話した。サボナは英語を話した。ふたりとも28才で、まじめでおとなしい青年だった。
 21日はコンピュータ学院の2年生のクラスで、学生が研究発表をおこなった。c言語を用いたプログラミングの話であったが、ロシアの学生はプログラムの中身に関心を示した。ただ、まだ2年生であるため、どの程度、プログラミングを学んでいるのかはわからなかった。また、我々の発表だけで、彼らの発表がなかったので、彼らが受けている教育内容やレベルについては全く情報をえられなかった。
 昼からは1年生クラスでの日本語の授業をおこなった。授業の様子を地元TV局が撮影にきた。フィルムは、3日後の金曜日の朝のニュースで放映された。
 9月22日は環境学科で学生が研究発表をおこなった。最初、機械工学科であると聞かされていたため、私が宇部高専の機械工学科の紹介をおこない、次いで、学生が研究紹介をおこなったが、反応がおかしいので、学科を聞いたら環境工学科だった。それで、もう一件の研究発表は取りやめて、プレゼンテーションの内容を日本紹介に変えた。このような行き違いは「国際交流」ではあたりまえのこと?
 コムソモリスク工科大学でのインターンシップは22日までであった。22日の夕食はBurkov副学長が主催するdinnerに招待された。副学長からコムソモリスク工科大学の印象を聞かれたので、吉田は、日本に関心をもっている学生が大勢いることをうれしく思っていること、学生が親切に街を案内してくれて感謝していること、ロシア人がフィッシィングや野外スポーツで豊かに人生を楽しんでいることに感銘を受けたことなどを伝えた。Burkov副学長は静かで控えめで、無理にウヲッカを飲めと進めたりしない、人格者であった。通訳はユージーンが務めた。
 9月23日はアムール教育大学を訪問した。アムール教育大学には、昨年7月に吉田と南が訪問し、学術交流協定を結んでくれるように頼んでいたが、返事がないままになっていたので、もう一度、訪問したものである。そのようないきさつがあるので、最初は不安であったが、アムール教育大学は、我々を心から歓迎してくれた。
 23日の午前は、学内の見学をおこなった。案内はKsenia Mikhaylova国際交流室長(以下クセーニヤ)がおこなった。彼女には昨年もお世話になっており、昨年訪問した専攻科生の名前も覚えていた。学内はインターネットが普及しており、図書館はモスクワ大学の図書館に接続されており、インターネットで文献を読めるということだった。コンピュータ工学科ではwindows上でc言語プログラミングを教えていた。ちなみにパワーポイントとエクセルファイルはロシアのパソコンでも読めるがワードファイルは読めない。
 午後は、日本語学科で授業をおこなった。我々の学生が日本語で授業をおこなうときは、ここでも、友好的に受け入れられた。そのあと、外国語学科の教員と日本語教育についてデイスカッションをおこなった。日本語を勉強するためには日本に留学する必要があるかと問われたので、吉田は、日本語の教科書や映画のDVDを日本で手に入れて、コムソモリスクで勉強する方がよいと答えた。
 午後は市内散策をおこなった。日本語学科の学生4人が同行して市内を案内してくれた。このときは、第二次世界大戦後のシベリヤ抑留で、日本に帰れなかった日本人兵士の鎮魂碑を訪れた。多数の日本兵抑留者がコムソモリスク市の建設に携わったとのことだった。歴史で習ったシベリア抑留がこの地で行われたことを学んだ。

アムール教育大学の本部建物。左端は国際交流室員のアンナ。

電子図書館。モスクワの図書館のデジタルデータ化された文献を読むことができる。

コンピューター学科の講義用教材。スクリーンがタッチパネルになっている。
 24日は、日本語学科と英語学科の混合クラスで授業をおこなった。日本語を習っていない学生がいるため、我々の学生が英語で話すと、ロシアの学生から、スクリーンに英語が書いてあるので、(へたな英語より?)日本語で話せと注文された。
 昼からは市内散策をおこなった。昨日と同じ学生が案内してくれた。コムソモリスク博物館と美術館を訪問した。ちなみにコムソモリスク市内には、いくつかの小さい美術館や博物館があるが、料金は外国人100ルーブル、ロシア人50ルーブルであった。いずれでも専属のガイドが案内してくれた。美術館を訪問した時は、ガイドが英語で説明してくれたが、博物館ではロシア後の説明であったため、学生が日本語に翻訳した。
 9月25日は、午前中、日本語学科でのプレゼンテーションをおこなったあと、午後、Alexander Shumeykor学長(以下シュミーカー学長)と会談した。シュミーカー学長は、アムール教育大学の卒業生が航空機会社などで、コムソモリスク工科大学の卒業生よりも高い評価を受けていると話した。吉田は、アムール教育大学と宇部高専の教育が、コンピュータテクノロジーなどの分野で、多くの共通点があるので、今後も交流したい旨を述べた。通訳はクセーニヤがおこなったが、学長は、通訳なしでも英語を理解していた。学長は学術交流協定案を示して、日本に持ち帰って検討して、返事をくれるように話された。
 コムソモリスク工科大学、アムール教育大学での日程を無事に終えて、9月25日の夜行列車でコムソモリスクからハバロフスクに移動し、翌26日の飛行機でインチョンに移動し、27日に宇部に帰った。

アムール教育大学での講義。アムール教育大学の学生はコムソモリスク工科大学の学生とちがって、我々のつまらないプレゼンテーションに対してはづけづけと注文をつけてくる。

日本語教育についてのデイスカッション。部屋中にサボテンの植え木がある。左端が学科長で元気溌剌の女性だった。

第二次世界大戦後のシベリヤ抑留で、日本に帰れなかった日本人兵士の鎮魂碑。

シュミーカー学長(中央)との会談後の記念撮影。となりは教育担当副学長。女性は通訳を務めたクセーニヤ

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